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●走りはじめたのは?

なんとなく「体を動かさにゃあかんな」と思った、1993年5月頃だったかな。
まさか自分が市民ランナーになろうとは、そのときは全く予想もしていなかった。

「何か腹のぜいにくも目立ってきたし、体力も落ちてるみたいだなぁ」と感じたのは、30歳を過ぎたある日のことだった。
まあ当然と言えば当然の結果なんだが。
会社に入って約8年間スポーツらしきものは、ほとんどしていない。
年数回、思い出したように、学生のことやっていたテニスをするぐらいだった。
その他冬にスキー・スノボーをやっていたがスポーツというより遊びかな、ゲレンデでもビールばかり飲んでたし。
あとは不健康を絵に描いたような生活、朝早くから深夜まで仕事し、しかもそんな状態でも深夜からよく酒を飲みにいっていた。
休日も仕事が多く、仕事がないときは部屋でごろごろしていた。
そんなこんなで、いつの間にか体型は中年のおじさんとなっていた。
自分で言うのもなんだが、学生の頃まである程度スポーツをやっていたのと、貧乏生活でスリムで爽やかな好青年?だったはずなのに。
というわけで、とりあえず相手も道具も必要のないジョギングをはじめたのであった。

実は「走ろう」と思ったのは、このときが最初ではなくこの数年前(25・6歳の頃)に一度はじめたのであるが、1日で挫折した。
理由は簡単で、普段全く体を動かしていない者がいきなり走るものだから、数百メートルで背中や腰が痛くなってしまったからだ。
だから今回はものすごくゆっくりと走る=ジョギングから行うこととした。

最初はほんの1キロと2キロだった。仕事が終わった深夜に、家の近所の田んぼの周りをたまに走りだした。
休日は近所で走るのがなんとなく恥ずかしいので、わざわざ名城公園まで行って走った。
なぜ名城公園かというと、ここには多くの人が走っているという環境はもちろんであるが、もう1つ以前から隣接する県スポーツ会館のサウナにたまに行っており、走り終えたあとに馴染みのところで汗を流せるからであった。
名城公園の周回コースは1.3kmなんだが、これさえも長く感じた。はじめのころは2〜3周で十分だった。
今でも覚えているが、最初に4周約5km走れたとき会社で「昨日5kmも走ったよ」と自慢したぐらいだった。確か1ヶ月くらいたったときだったか。
ここで休まずに10km走れるようになったのは、走り出してから3〜4ヶ月だった。
ちょっと人並みに走れるようになったことに満足し、それ以降は平日にほんのちょっと、たまの週末に数キロ走るという生活になっていった。
最初の1年くらいは月に多くても50km程度だった。

 健康志向ジョガーからランナーへ


最初のレースは94年1月、大阪長居陸上競技場で行われた「かんぽなんちゃらマラソン(名前は覚えていない)」だった。
なんでまた、大阪まで行ったかというと、当時会社の健康保険組合を通じてこのレースに参加できるという仕組みがあったので。
しかも会社を利用して参加するため、大阪までの交通費・エントリー代は会社持ちなのだ。
実はこの時点では、自分でもまだランナーという自覚はないので、参加するつもりでなかったが、職場の先輩に強引に誘われて申し込んでしまった。
「往復の新幹線を近鉄にして、浮いた旅費で道頓堀あたりでたこやきでも食いながら一杯やろう」という口車に乗せられて。

そんな訳で初レースへの気負いも緊張もなく、ただ「たこやき」「ビール」を期待して当日大阪までいった。
地下鉄に乗り換え、長居陸上競技場についた。選手として初めて競技場へ入った。選手とし自覚がないので、特に何もすることなくお祭り気分に浸っていた。
さあいよいよスタートである。まずランナーの数に驚かされた。いったい何人いるのだろうか?少なくとも千人は軽く越えていた。
「世の中にはこんなにも走るのが好きな人がいるんだなぁ」とある意味感動した。
さてレースの方は、なんせ初めてなのでペースがよくわからない。いつもはゆっくりと自分のペースで走っているだけなので。
折角のレースなので、自分の力を出し切ろうと思い、とにかく維持できる限りの最も早い速度を心がけた。
前半無理したせいか、後半は苦しくて仕方なかったが、なんとか気持ちだけは頑張り続けることができた。
そして、待ちに待ったゴールへ。
しばらくすると苦しかったことも忘れ、体の疲れが心地よく感じられ、また「気持ちは負けなかった」いう思いが妙にうれしくなるのだった。
タイムは46分と平凡なものだが、当時の私にはいろんなことを感じ取ったことが、何よりも収穫だった。
「また来年も参加しよう」「この先も走り続けよう」と思い、このときからレース参加しようという気持ちに移行することとなった。

とは感じたもののマラソン大会が他にもいっぱいあることも知らないので、すぐに目標があるわけでなく、その後もこれまで通り月にせいぜい50km程度の練習であった。
そんな中でふと「フルマラソンを走ろう」と思い立った。
まあこの頃いろいろと壁にぶち当たっていたときなので、そんなことを思いついたのかもしれない。
ただこれは新たな出発点というより、「フルマラソンも走ったし、ランニングも出来ることはやれた」という終点を目指すものであった。
だからこの最初のフルマラソンにもし完走できていたとしたら、私のランニング人生はそこで終わっていたのかもしれない。
という訳でどの大会にしようかと考えた結果、どうせなら世界的に有名なものにしようと考え、無謀にもニューヨークシティマラソンを選んだ。
これに申し込んだ7月以降は、やっとフルを目指すという自覚がめざめ、月に100km以上走ることになった。
そして11月、期待に胸を膨らませ渡米した。
海外も大学の卒業旅行以来なので、走ること以外にも楽しみがいっぱいあった。
昼間は美術館を巡り、夜は本場のジャズを聞きにいっていた。
寝るのも惜しんで遊んでいたためか、すぐに風邪をひいてしまった。
そしてレース当日、高熱を出してしまい、結局走ることを断念することになってしまった。
「走ってダメだったならまだしも、走れないなって」
自分自身が情けなくって、「次は絶対に完走してやる」とこのとき決意するのであった。
そして、マラソン大会についていろいろと調べ出すと、各地でいろんな大会があることにはじめて気づいた。
場所が近いフルマラソンの大会は、2月の京都・木津川マラソンだった。
早速問い合わせてみると、フルは定員にて締め切り、20kmなら可能とのことで申し込んだ。
またフルは4月の掛川に申し込んだ。

木津川の20kmは快適だった。
初の20kmレースということで、ペース配分がわからず前半10kmは50分くらいのペースだった。
後半はとにかく体が軽かったので、できる限りスピードを上げてみた。
結果、タイムは95分と予想よりも遥かによく、また気持ちいい走りができた。

続いていよいよフルマラソンだ。
走行距離も徐々に伸びており、それほど大きな不安もなかった。
どうしてもダメなら歩けばいい、制限時間が5時間なので、いつもよりゆっくりのペースで走ったとしても途中で1時間も歩けると思うと気持ちは楽だった。
結果は3時間50分程で完走だった。歩くことせずに走りきることができたのが何よりうれしかった。
よく35kmの壁とか言われているが、このとき25km過ぎぐらいでそれを体感していた。
「力が入らない、体のエネルギーがないみたいだ」ということを思ったのを今でも覚えている。
エイドでチョコレート・フルーツなどをいっぱい口に入れ、とにかくゆっくりでもいいから走ろうと考えていた。
するとしばらくすると、徐々に体に力が入るようになってきた。足も前よりも動くようになってきた。
このときフルの場合のエネルギー補給の重要性を初めて認識したといえる。
まあ、何はともあれ完走もしたし、大満足の結果であった。

このとき当初の目的であるフルマラソン完走が達成したので、ここで終わることもできたのだが、実はもう1つ心残りがあった。
それは、海外マラソン完走である。
最初に目指したのがニューヨークだったので、やはりそれと同様なことをやり遂げたかった。
またもいろいろと考えた結果、今度はオーストラリアのシドニーマラソンにした。
これなら夏休みをちょっとずらせば可能そうなので。
前回のニューヨークはマラソンツアーに申し込んだ。しかしツアーでの参加は割高だと気づき、このときはレースエントリーから飛行機・ホテルもすべて自分で手配した。
それらの手配も現地でもいろいろと大変であったが、このことを通じて多くのことを学ばせてもらえた。
これをきっかけにその後、海外への貧乏個人旅行をいくつかすることにもなった。
シドニーマラソンの結果はというと、3時間40分程でこれまた見事完走できたのであった。

いよいよ決断の時がきた。
これで「走る」ということの目標がすべて達成したのである。これで完了という選択もあったのだが。
そんな訳にはいかなかった。
不思議なもので、目標が達成されるとすぐに次の目標が出てくる。
フルでは3時間50分、3時間40分ときているので、次は3時間半つまりサブ3.5を目指したいと思うようになった。
また10kmでは40分を切りたいとも思うようになっていた。
そして何よりもこれまでの「走る」という経験の中で、レース自体も面白いが普段のランニングも楽しいということに気づいてしまったからである。
これから今まで以上にいっぱい走って、いっぱいレースにも出ようと考えるようになっていた。
しかし、世の中はそんなに甘くなく、その後はケガ・故障に悩まされることになるのであった。


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